週末に本気を出す療法士

自分の目に映る「リハビリ難民」を西洋と東洋、双方向から診る療法士。セミナー寅丸塾を不定期で開催しながら、普段は家でも職場でも子どもに振り回さる会社員。

外から見た世界、中から見た世界

今日もアクセスいただき、本当にありがとうございます。

 

寅丸塾の管理人です。

 

 

最近は、セミナーの主なテーマにもなっている「運動学習」についての考察を記事にしております。

toratezza0316.hatenablog.com

 

リハビリテーションにおいて、

患者さんに何かを学んでもらう

という視点は常に持っていかなければなりません。

 

前回、運動学習に必要な

「感覚」と「予測」

という視点で記事にしました。

 

今日は、もう少し専門的な内容に触れていきます。

(できるだけ分かりやすい表現で紹介していきます)

 

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数字には表せないもの

 

 

人が人の問題を評価するとき、こと西洋医学においては「正常値」という基準があり、

そこからどれだけ逸脱しているか

という見方をするのが常識です。

 

 

リハビリテーションの世界でも、

患者さんを評価する際は一般的に「数字」を大事にします。

 

・関節の動かせる角度

・筋力の程度

・麻痺の程度

・感覚障害の程度

・手足の太さ、長さ

・知的な水準、高次脳機能

・日常生活自立度

など。

 

これらは全て、表に数字を書き込めば評価したことになる内容です。

 

リハドクターも、基本こういった数字を見て

「よくなった」「まだまだだ」

的な判断をしますので、

病院では基本的にこれらを把握することがほぼ必須となります。

 

 

一方、

どうやっても数字には表せないものがあります。

 

 

それは、

 

患者さんの訴え

 

です。

 

 

 

当り前のことかも知れませんが、

患者さんの「困っていること」や「これからどうなりたいか」という部分を訊かずに訓練をすることなどあり得ません。

 

学生でもそれくらいは把握しています。

 

 

ですが、

患者さんの「経験している世界」について、

セラピストは理解する努力を怠っている傾向が強い。

 

 

 

例えば、

片麻痺患者さんの多くは、歩く時に(かかと)を浮かしてつま先だけで体重を支えながら歩こうとする場面がよくみられます。

 

専門的には「尖足(せんそく)」と呼ばれる現象ですが、

何故つま先だけで歩こうとするのか?

 

「数字」の範疇で問題を考えると、

 

・ふくらはぎの筋肉が緊張していて足首の動きが〇度しか動かない

・麻痺の程度が〇点なので足元までコントロールできない

 

訓練は、

・ふくらはぎの筋肉を伸ばそう

・しっかり動かして麻痺の点数を上げよう

・必要なら装具を用いて矯正しよう

 

的な発想が生まれます。

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では、

患者さんの「経験している世界」をベースに同じ問題を考えるとどうなるか?

 

・身体が不安定なせいで歩くこと自体が怖い

・坐っていればかかとは床に着くし「存在感」もあるが、立つと力任せになってしまい足元の感覚を感じる余裕がない

・足がどこにあるのかわからない

 

このような経験を患者さんがしているとしたら、

訓練はもっと繊細な作業になる必要があります。

 

 

つまり、

かかとの感覚は「ある」のに歩くと「無くなる」のは、

前回のテーマであった「力任せになって感覚が入ってこない状態」ですし、

 

そもそも患者さんは、

片方の手足だけが動かない状態というよりも姿勢制御の問題を抱えていますので、

高いバランス能力の必要な「歩行」という課題は実は「恐怖」との戦いです。

 

姿勢制御についての記事はコチラ↓

toratezza0316.hatenablog.com

 

 

したがって、

「患者さんがかかとを床につけて歩ける」

という目標に対して、

 

・もっと前(起きる、坐る・・・)の段階での動きはどうか?

・どのような動きなら患者さんは怖さや力みを感じることがなくなるのか?

・かかとに体重がかかるという感覚を得るためには足の付け根から力を伝える必要があることを教えないといけない

 

など、様々な可能性を考えていく必要が出てきます。

 

 

 

 

外部観察と内部観察のバランス

 

 

このように、

患者さんの感じている世界を分析し共有していく作業を、

 

内部観察

 

と呼びます。

 

 

それに対して、数字ありきの評価を外部観察と呼びます。

 

 

セラピストは、

セラピスト以外の人と情報交換をする際は外部観察中心で話をして良いのですが、

セラピスト同士や患者さんと情報共有する際は、(外部観察を踏まえて上で)特に内部観察にウェイトを置いてディスカッションや治療を進めることが重要じゃないか

と私は感じています。

 

 

 

しかし、

内部観察を進めていくためには

患者さんの経験している世界を問うスキル(=質問力)

や、

上手く喋れない方の場合は見えないものを察するスキル(=洞察力)

が必須になります。

 

なお、

そこそこ長い病院勤務の中で、この思考が共有できた仲間は数人しかいませんでした。

 

 

臨床家にとって最優先事項は結果を出すことですので、

あくまでも1つの考え方に過ぎません。

 

しかし結果を出すには最低限知っておかなければならない知識があることも事実です。

 

 

急性期(発症してすぐ~医療的処置の必要が無くなる期間)メインの病院では、

患者さんは長くとも2ヶ月程度で目の前からいなくなります(=リハビリ転院)

 

その間、患者さんの自然回復に伴って何かしらの「点数」を上げること自体は割と難しくありません。

 

なので、

結果を出すこと=少しでも点数を上げること

と大部分のセラピストが勘違いしています。

(上げられる部分は上げてよいことには異論ありません)

 

 

ただ、目先の点数に拘った結果、

「力任せの動きや感覚が入ってこないような動き方」

を学習してしまうために、

「その後の人生全てにおいて力任せで動かないといけない」

などという悲惨なことになりかねない。

 

 

特に急性期の病院にいるセラピストは、

自分の選んだ戦略が数字ではなく患者さんにとって適切な課題であるかどうか、

患者さんの人生の質を高めることにつながるものであるか、

よく考える必要があります。

 

 

私の場合、

 

・内部観察においては認知理論

・外部観察においては筋膜や経絡

 

を用いて現在のスタンスを確立しておりますが、

それでも日々患者さんと向き合うことの難しさを感じております。

 

その中でも、

質的な変化をクライアント自身が感じてもらえた瞬間は私自身も非常に嬉しいですね。

 

そうやって悩んできたことを、今は少しずつ後輩達に伝えていく努力をしているところです。

 

 

今日の記事はここまでです。

少し専門的な話になりましたが、ここまでお読みいただきありがとうございました。