東洋医学についてpart.2
今日もアクセスいただき、本当にありがとうございます。
ただ今、家族がインフルエンザ罹患中のため自宅看護中です。
近日中にも自分が倒れる番じゃないかと戦々恐々としつつ・・・
さて、先日から始まった東洋医学シリーズですが、いかがでしょうか?
前回の内容
西洋医学は現在の主流で感染症や手術といった分野で強みがある一方、病名のつかない、もしくは検査をしても原因のよく分からない問題については不得手
東洋医学は古くから発展してきた医術で、漢方や鍼灸といった手法によってその人の症状だけでなく全体を診ることで体質改善を図るが、即時的な効果は薄い
といった傾向をもつことから、
どちらの考え方も重要で、相互に補いながらフレキシブルに医療が提供できる必要がある
といった意見を述べてきました。
それでは本日は何を語るのか?
ですが、
東洋医学において人の健康状態を左右する三要素
気・血・水
についてお話します。
気・血・水 の概念
前回も少しだけ触れましたが、現代の東洋医学において人の健康は、『気・血・水』の三要素が体内を正常に循環することによって保たれていると考えられています。
『気』とは?
「気力」「元気」という言葉があるように、目には見えない根源的なエネルギー。 呼吸や心臓の働き、血液の流れ、体温や汗の調節など、身体の機能活動や精神活動はすべて『気』によって行われると考えられている。
『血』とは?
生体を物質的に支える赤色の液体。
水穀(飲食物)の気の一部が『肺』で赤色化したものが『血』となる。
『水』とは?
生体を物質的に支える無色の液体。水穀の気が赤色化せず無色のまま液化したものが『水』。津液(しんえき)ともいう。
従って、体内の各機能単位である五臓・六腑が正常に機能するためにはこの三要素のバランスが大切で、どれかひとつでも過剰や不足があると病気を招いてしまうのです。
気・血・水の不調と対処(例)
例えば、
・疲れやすい
・食後に眠くなる
・胃腸が弱い
・かぜをひきやすい
・季節の変わり目や環境の変化で体調を崩しやすい
・体温が低い
・冷え性
・筋肉が少なくいわゆるぽっちゃり、柔らかい肉質
このような特徴(傾向)を東洋医学では「気」が乏しい状態「気虚」と表します。
気虚とは、体に必要なエネルギー(気)が不足している状態を指します。
気虚体質の人は筋肉が少ない傾向が強く、基礎代謝が低いため人と同じ運動をしても脂肪の燃焼が少なく、痩せにくい上にあまり食べなくても太りやすい。
通常、基礎代謝におけるエネルギー消費が最も多いのは筋肉で、基礎代謝全体の約40%を占めるとされています。
また、平熱が低い人がこのタイプに多いのですが、
人は体温が1℃下がると基礎代謝が12%低下すると言われています。
これがどのくらいの差を生むかと言うと、
同じ成人女性でも体温が36℃の人と35℃の人では、同じカロリーを摂取しても1日に140kcal前後エネルギー消費に差が生じ、35℃の人は1ヶ月で4000kcal≓600g程度の脂肪が沈着していく計算になるそうです。
気虚を東洋医学的に治療するには「補気」、つまりエネルギーを補給する必要があります。
この場合、
- 胃腸の消化吸収能力を高める
- 食事から効率よく栄養素を吸収できる
- 体質が変化し深部体温が上がる
- 基礎代謝量が増加し効率のよい減量ができる
といった変化が期待されます。
つまり、
「痩せたい」という希望を叶えるためには消化吸収をよくするという、ある種逆説的な考え方に基づいて体質を変えていかないと、いつまで経っても太りやすく痩せにくい体質のままということになります。
食事制限だけのダイエットを繰り返すと、ますます筋肉量が減って気虚が進みます。
深部体温を上げるためには筋肉をつけることが不可欠なのですが、そもそも気虚体質の方は運動などやりたがらない、あまのじゃくな人が多いのも事実。
そこで、
漢方における『陽性食品』を食べると、食事誘発性体熱産生(DIT)を活性化させ、体温を上昇させる効果があるといいます。
DITとは、食事をした後、安静にしていても代謝量が増大することを言います。
食後はアドレナリンが分泌され、また、食べ物が消化されるときにも熱が発生するするため、代謝量が上がり、体温が上がるのです。
その上で、見よう見まねのヨガとかストレッチでもよいので体力作りから始めることがスモールステップとしてオススメします。
単純な食事制限や、急に激しい運動を短期間行ったダイエットで最初に減るのは筋肉と水分です。
目先の結果だけ、即時的な効果のみを求めるのは東洋医学的な考え方に反します。
長期的な展望や、なりたい自分になるにはまず何から取り組むか
という知識や意思力は重要ではないでしょうか。
かくいう自分も、どれだけ自分の目標に向かっているかと言われると考えてしまいますが・・・
少なくとも、仕事柄クライアントに心配されるような印象は与えないよう注意しているつもりではありますが。
今日は気・血・水 について語るつもりが、殆ど「気」にしか触れずに終わってしまいました。また次回以降の課題とします。
今日もここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
東洋医学についてpart.1
今日もアクセスいただき、本当にありがとうございます。
多くの方よろしく、長い休暇から解放され日常業務に戻っております。
まぁ、正月はそれなりに面白いイベントもありましたが・・・
薄々気付いてはいたのですが、ブログの紹介コメントにも載せている「東洋医学」とは何なのか、一度も説明しないままこれまでヌルッとやってきてしまいました。
なので、
今回から暫くの間、シリーズで今現在私の研究テーマである東洋医学についてお話させていただければな・・・思いながらも、
何から語っていけばよいやら悩みながらPCと向かい合っています。
西洋医学と東洋医学の違い
まず、西洋医学からお話します。
西洋医学は、その名の通り西洋で発展し現代医療の根幹を成すまでに成長した学問です。
解剖学や生理学を基に血液検査や尿検査、レントゲンやDNAなどあらゆる細胞・遺伝子レベルでの科学的検査に基づいて「病名」を決め、それに応じて投薬や手術を提供します。
つまり、病原菌を特定し、それを排除するという考え方で治療が進められるため、排除(切除)した結果身体のバランスが崩れて日常生活に支障を来たす可能性が大前提にあります。
また、病名を決めることからスタートするということは、病名がつけられない病気には対処することが苦手です。
しかし、西洋医学が発展したことで誰もが知っているように人類はこれだけ長生きができるようになりました。
我々セラピストはもちろん医師も看護師も、国家試験では西洋医学に関する知識がなければ話になりませんし、「エビデンス(根拠)に基づいた治療」を提供できる医療者は、多くの場合優秀な医療者として認知されます。
では東洋医学とは?
東洋医学は、その名の通り東洋で発展した伝統的な学問です。
諸説ありますが、
2000年前の古代中国で生まれ、7世紀頃日本に伝わり、日本人の体質や分化に合わせて独自に発展してきました。
古医籍に基づく薬物療法を「漢方医学」、鍼・灸でいわゆる「ツボ」を刺激する物理療法を「鍼灸医学」と呼び、これらをひっくるめたものが現在の「東洋医学」です。
東洋医学では、患者さんの自覚症状や症候、病態に着眼し治療を行います。
具体的には「冷える」「倦怠感」「重い」といった、自律神経や免疫機構、内分泌系が関与している症状に対して、
漢方や鍼灸といった手段で「体質」を変えていくような考え方です。
したがって、手術が必要なガンや組織損傷、肺炎などの細菌感染症などには直接的な効果は薄いと言えます。
具体的な例↓
つまり、
どちらがいい・悪いと言うわけではなく、
どちらにも得意な分野と苦手な分野があり、
どちらかに偏った思考ではなく、
お互いに補い合うことが質の高い医療につながるのではないか、
と私自身も数年前から考えるようになりました。
実際、古くから日本で医業といえば前述のように東洋医学であったわけですが、
西洋医学は150年そこそこです。
医療の発展は目覚ましいですが、現実として対応しきれていない患者は病院に溢れています。
そこで、近年になって再び東洋医学(特に「漢方」)への関心が高まってきましたよね。
東洋医学的なリハビリテーションとは
先ほど、東洋医学を紹介する際「体質」というワードを使いました。
体質とは,人体の各部位の形質の総和である。また,身体の形態や機能について生まれながらに備わっている全体論的な性状である。つまり,人体の一つ一つの部位(器官,臓器,組織など)を個別に調べても判明しない総合的な性状である。 近代医学は,人体の個々の部位を精査して病型を分類するが,16世紀のパラケルスス以前は,むしろ,人体を一つのまとまりとみなして,病気の原因を探っていた。すなわち,病気の原因を体質によって説明しようとしていた。
出典 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について
ここでいう体質とは、
体液の質を指します。
体液(特に細胞外液)とは主に、
血液 リンパ液 脳脊髄液
の3要素です。
血液は全身を栄養し、新陳代謝を促します。
リンパ液は老廃物を心臓に戻したり免疫機能に関与します。
脳脊髄液は脳や脊髄という中枢神経を守りながら栄養し、ホルモン運搬の役割も担います。
この考え方に従うと、人の健康=恒常性(後日解説)は、
・体液が全身をスムーズに流れていること
・体液に含まれる成分が安定していること
・それによって五臓六腑が機能しているかどうか
に左右されると考えることができます。
例えば、
一般的なリハビリテーションでは、
腰痛患者に対して毎回腰を温めたり、牽引装置を使って引っ張ったり、療法士が一生懸命マッサージをしたり・・・
どこの病院でもよく見る光景ですが・・・
東洋医学的な見方で腰痛を診るとき、
なぜ腰痛になったのか?
腰痛にならない体質にするには何を変える必要があるのか?
を考えます。
病気を診て、人を診る
という視点に立つと、
慢性的に肌の色が黒ずんでいる(=「腎」の衰弱)
とか、
何か腫れぼったい(=水滞:排泄機能の低下)
とか、
いつも気だるそう(=気虚:根源的なエネルギーの欠乏)
など・・・
これは人体の構成要素を『気・血・水』の3つに分類する東洋医学の基本的な考え方なのですが(詳しくは次回)・・・
これらの症状に対して、
どの経絡(ツボとツボを結ぶ線路のようなルート)が停滞しているのか
という見立てをし、治療していくのが東洋医学的なリハビリテーションとなります。
(ここでは「腎」の経絡「腎経」に対する治療↓)
東洋医学における「腎」とは単純に「腎臓」そのものを指しているのではなく、
泌尿器はもちろん人の成長・発育・生殖に影響を与える生命エネルギー「腎気」を総称した概念です。
この「腎気」を供給する経路に過剰や不足があると生命エネルギーに関連したトラブルを招いてしまう。
それを補充したり排出したりするために利用できるルートが「腎経」という経路です。
・・・話題が話題なだけに、かなりマニアックな話になってしまいました。
難しい単語が並ぶと人間は拒否反応を起こしてしまうので、細かい部分は興味のある人だけ読んでくだされば結構です。
方法論はともかく、何となくでも東洋医学×リハビリテーションについてお分かりいただけたでしょうか?
次回からは、もう少し基本的な考え方を順を追ってご紹介出来ればと思います。
今日もここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
解剖学実習 超実践編
今日もアクセスいただき、本当にありがとうごさいます。
なんか最近、自分にしては更新頻度がかなり多い方ですね。
今日は番外編というか、ただの日記です。
正月早々誰かに言いたい衝動に駆られたイベントについて文章化しております。
ここは尾道ですが、全国的にイメージされる↓
こういうエリアではなく、むしろ↓
こうです。
なので、昔から米とか百姓仕事がこの地域ではスタンダートなわけです。
それともう一つ、自分には全く縁のない仕事があります。
それが「猟」。
この元旦、いきなり両親から呼び出しがありました。
「檻にイノシシがかかったのを、明日解体するから手伝え」
いやいや、ウチはいつから猟をするようになったのか?
元々大工の親父が、60過ぎて猪を捕まえる免許を取ったことは聞かされてましたが、
マジでそんな日が来るとは・・・
ということで、戦々恐々としながらも翌日現場に出向いてみると・・・
ホンマにおった。
すでに内臓は取り出され血抜きされていたためか獣のにおいは少なく、
それでも100kgはありそうな大人の猪が吊り下げされていました。
それを、そこそこ慣れた手つきで包丁で皮から皮下脂肪・筋肉・骨と順に剥ぎ落としていく親父と猟師仲間(?)のおっちゃん。
猪とは言え、ほ乳類の筋骨格は我々人類とかなり類似しています。
学生の頃、解剖学実習の授業でご遺体を検体したものを拝見したことを思い出しました。
当時は大した知識も経験もなく、目の前の異様な光景に旋律したと同時に
はっきり言ってヨボヨボのペラペラになった老人の筋骨格を観察してもあまり面白くなかった
というのが(大変失礼ながら)正直な感想でした。
そして今、目の前で解体されている猪は野生の上に冬眠に備えて身体を丸々と太らせた、多分森で遭遇したら自分の命がないだろうなってレベルの巨体。
大腰筋なんて半端ないデカさじゃないですか(多分腰ロースと呼ばれる部位)。
この強靱な後足で突進してきたら、人間には絶対に防げないです。
死にます。
また、
「筋膜」が分厚く、吊されて固定されているからか常に「身体がピンと張っている」ような状態。
これは、動くためには全身に張り巡らされたボディスーツのような筋膜が協調的に滑ってくれなければならないことを示しています。
肋骨の裏側には「胸膜」と呼ばれる半透明で肺と肋骨の摩擦を防ぐ膜があり、これがまた切りにくい
=生命維持に直結するために弾性と剛性を合わせ持つ強固な組織
などなど・・・
とまぁ、人生初の解体現場で人知れず学生時代よりもはるかに有意義な「実習」をすることになった私は相当なリハビリ馬鹿になったものだと感じます。
その後、切り分けた肉を何切れか分けてもらったはよいもののどう料理するか・・・
と考えた末、煮込んでみることにした。
分厚い筋膜を切り離して、トマト缶やら酒コンソメとか圧力鍋に適当にぶっ込んで20分・・・
そこそこいい感じの猪トマト煮込みができた。
妻の感想は「☆3つ」。
・・・だんだん何が言いたいのか分からなくなってしまった。
こんな自分の仕事と関係なさそうな現場にも、専門性を磨くきっかけがあるんですね。
何事もやってみるものですね。
話のネタが1つできたってことで、明日の診療にも生かしていきます。
それではまた。
NHKでも「リハビリ難民」が話題になった話。
今日もアクセスいただき、本当にありがとうございます。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくおねがいします。
新年1発目の記事は、一年以上前に書きかけて何故かお蔵入りしてしまった記事をリニューアルして投稿する事にしました。
リハビリ難民とは
最近は、TVや新聞でも「リハビリ難民」というワードを見聞きするようになってきました(自分がそういった情報にアンテナを立てているから、かもしれませんが)。
例えばこんな記事↓
色々と目にする記事を要約すると、大体こんな感じの内容がメインに載っています。
・医療保険が適応される病院リハビリは脳卒中で180日、外傷で150日
・リハビリを受けたくても受けられない「リハビリ難民」は約200万人に上る
・病院を退院するとその後の受け皿がなくなるため、リハビリ難民は増える一方
・彼らを対象とした「保険外リハビリ」を提供する団体が増えてきている
・高額の料金と引き替えに、彼らのニードに応え本当の意味で社会復帰を支援する
etc・・・
天下のNHKでも取り上げられるくらいですし、
そもそも日本は長寿大国=介護問題が蔓延化していることは今さら言うまでもないですよね。
現代医療の抱える問題
これまで「リハビリ」というものに縁の無かった方から見れば、
・医療は病院で受けるもの
・医者がこれ以上はよくならないと言ったらそれまで
・保険診療の「期限」が来れば最後
という認識を持たれるかも知れません。
しかし、
我々セラピストには「個の力」という揺るぎない差があります。
現代医療において、
大部分の病院で行われるリハビリの目的は家に帰すことです。
この言葉だけ聞くと、特に問題ないように感じます。
しかし見方を変えると、
麻痺や運動機能の制限が残存しても生活能力さえ獲得させれば病院的にはオーケーなのです。
極端な話、
「片手でもこうすれば日常生活が送れるでしょ?だからあなたはもう退院しなきゃいけません。こっちの手が動かないのは残念でした」
となります。
というか、私自身も技術のなかった昔はほぼ同じ台詞を言っていました。
その後の生活・社会活動については
障害者年金=就労出来そうになければ年金をもらいましょう
といった具合に、
如何に入院期間を減らすか、回転率と自宅復帰率を増やすかという、
見事に組織の一歯車として機能していた頃がありました。
また、診療報酬というシステムには、
どこで誰がどんな治療を提供しようとも(年齢による負担割合は別として)「一律料金である」という、いいように見えて致命的な欠陥があります。
誰がやっても料金が一緒なら
医療者自身が危機感や向上心を保ちにくい
という傾向が間違いなくあるということ。
したがって、医療機関の方針や教育体勢は様々ではあるが
・患者自身が自分の訴えに応えてもらっていると感じない
・今受けているリハビリはつまらない(もしくはやたらと疲れる)
・効果を感じない(むしろあちこち痛くなる)
現場レベルではこのようなジレンマが生じる例が決して少なくありません。
もちろん、これまで見てきた中でも優秀だと感じるセラピストは何人もいました。
しかし、どうしても組織の中で我を通すには無理がある。
私が病院を去った理由はそこなのですが、
組織レベルで患者のニーズにとことん向き合おうとする変態集団(?)が近年になって増えてきました。
それが「保険外リハビリ」です。
QOLを高めるための選択肢
これらの施設では、高額な報酬(保険診療では国が支払う割合を全て個人が負担するという意味では正当な対価)と引き替えに、
何かしらの専門分野に特化したセラピストがクライアントの抱える問題の本質を見極め、具体的な目標(例えば1ヶ月後にはコップに手を伸ばすときの肘の角度を調節できる、とか努力感のない立ち上がりができる、など)を立て、毎回のように戦略を練り常に危機感と緊張感を持って日々の診療を行っています。
私自身もそのようなスタンスで週末の仕事に取り組んではいますが、今の立場では所詮片手間程度ですし、まだまだ未熟だったと思い知らされることも多々あります。
なので、今も保険外診療一本で生きているセラピストは本当に尊敬する。
そして、
これからはそういったセラピストが正しく選ばれ危機感のないものは淘汰される時代になるべき。
国は医療費を削減しようと毎年法律を改正することに必死だが、
そもそも「質」に関心を向けていない時点でイタチごっこにしかならない。
クライアント自身も、
正しい目を持ち適切な投資をすることが結果的に将来のしかかる介護負担やQOL(quallity of life=人生の質)に貢献することになる
可能性に1人でも多く気付いて欲しい。
そして、
身近な人や自分自身がそのような立場になったとき、目の前の「医療」について自分の意見をしっかりと持ち、こんな選択肢もあるということを覚えておいて欲しい。
そんな話題を、1年越しに紹介させていただきました。
目に見えない運動機能を高める
今日もアクセスいただき、本当にありがとうございます。
ブログのタイトル通り、大半のエネルギーを費やす週末の仕事も今年は終了し、年末年始のイベントが迫ってきました。
前回の記事では、
いわゆる重症心身障害者にどのような価値を提供するかについて論じてきました。
簡単にまとめると、
どのような患者でも問題には一次障害と二次障害があり、
一次障害は現代医学では対応できない身体構造や脳の器質的な問題
二次障害はそれらに付随して生じた機能障害でリハビリテーションで対応出来そうな問題
とざっくり分け、
二次障害をどのように解釈するかによってアプローチは大きく変わってくる。
特に身体構造に変形・奇形を抱える対象者は生まれながらに内臓が二次的に圧迫され、生命を維持するという本来のパフォーマンスが十分に発揮できない状態あるのではないか
という仮説を立てました。
内臓の運動機能とは
子どもの頃は自分の健康についてなど何も心配していなかった我々も、加齢と共にいつのまにか自分の「健康状態」が心配事ランキングの上位に急浮上していきます。
経験上、多くの日本人は「予防のために何かをしておく」ことは貯金くらいで(それも漠然とした将来の不安に備えるという理由)、具体的な目標を立てることが苦手です。
当然、健康管理も「できる」人と「やろうともしない」人の差が非常に大きい。
自由診療分野で仕事をしていると、CTも処方箋もなくクライアントが訴える情報だけを頼りに結果を出さねばならない。
慢性化した「腰痛」や「肩こり」などの問題を解釈する際、筋膜ラインのトラブルだけで完結することは殆どなく、ほぼ全ての患者に内臓機能の不調が見え隠れします。
ここで言う内臓の不調とは、例えば
高血圧症
→心臓を始め血管壁や毛細血管への慢性的な物理的ストレス
→リンパ系や腸管など免疫反応の衰え
→全身や局所の浮腫み
→内臓下垂
→腹膜や腸間膜が緊張し、表面の筋膜も引っ張る結果、「身体が重い」とか腰痛といった問題に発展するケースが事実存在する。
内臓も「平滑筋」という筋肉である以上、絶えず「運動」している訳です。
もっとも、ここで言う運動とは腕を曲げ伸ばしするような運動ではなく、
心臓が休むことなく血液を送り出す動き
や、
食べ物の消化吸収及び排泄物として肛門へ移動させるための蠕動運動
など、
それぞれの役割に応じた運動があります。
これを内臓の自動力と言います。
また、前回の記事にも少し紹介しましたが
身体が柔らかい人は、いわゆる筋骨格系の柔らかさと同様に内臓がある程度自由に移動してくれるためにお腹に圧がかかり過ぎず、柔軟な動きができるのです。
これを内臓の移動力と呼びます。
どちらが機能的に優れているかは言うまでもありませんね。
これらの目に見えない運動機能が、身体的なパフォーマンスを左右することは想像に難くないはずでしょう。
ちなみに、慢性的に問題を抱えているクライアントで「身体は柔らかいんです」なんて人を今まで僕は診たことがありません。
内臓の運動機能を高めるには
さて、何となく内臓の重要性が分かったところで、ではどうすれば内臓の運動機能は高まるのか?
という視点で語っていきます。
内臓の運動を語る上で、「横隔膜」の働きを避けて通ることはできません。
これまで何度か触れてきましたが、
ヒトの呼吸は横隔膜の上下運動で成り立っています。
しかし、よく考えてみましょう。
横隔膜が上下に動くということは、その上と下にある組織も一緒に移動しているということになります。
横隔膜の上には、肺と心臓があります。
横隔膜の下には、肝臓と胃があります。
人は1日に約2万回呼吸をしますが、これすなわち2万回内臓を上下に動かしているということです。
ただ、現代社会において、日常的に呼吸が意識できる人は自分と向き合う能力が高い人だと感じます。
クライアントの多くは、
常に肩で息をしている
前屈みで身体を固めている
身体を動かす=手と足を振り回すことと勘違いしている
自分の身体と向き合うことに嫌悪している
etc・・・
このような方は、ほぼ例外なく横隔膜の動きが乏しいです。
従って、内臓の運動機能も非常に乏しく、触診しただけでも肝臓や腎臓に痛みが生じるほど機能が衰えています。
クライアントとして治療を提供するときは外から動きを加えていきますが、自分の身体を管理するのは当然自分の課題です。
深呼吸=腹式呼吸ができるところまでガイドさせていただき、横隔膜と内臓の協調的な運動を学習させます。
例えば、
肝臓の運動を高めるためには右手を上げ身体を左に倒した状態で数回、
腎臓の運動を高めるためには上半身だけを起こした状態で数回
深呼吸をしてもらうといった具合です。
···しかし、これを重症心身障害者に対して実施するとなると話が変わってきます。
横隔膜自体が生まれながらに機能せず気管切開など外科的な手段や管理が必要な人には、そもそも我々の感覚でいう運動は困難を極めるため、よりダイレクトな内臓アプローチが求められます。
限られた空間内で内臓同士が相互に干渉せず、隣接する組織が上手く圧力を逃がす動きは内臓の可動力と呼びます。
もっとも、これを実現させるためにはここで語ることのできないセラピスト側のスキルが必要です。
自分では何もできずコミュニケーションもとれない対象者に、
「何をさせるか」ではなく「どのようなコンディションにさせるか」を推論し価値を提供することが、我々には求められます。
ここで仕事をするようになって、よりシビアに自分の技術を磨けるようになったことはとてもプラスに感じてます。
来年も、私を頼ってくれる仲間と一緒にリハビリテーションの可能性を追いかけていきたいです。
それでは、今日もここまでお読みいただき本当にありがとうございました。
問題には一次障害と二次障害がある
今日もアクセスいただき、本当にありがとうございます。
最近の記事は、子どもの療育に焦点を当て徒然なるままに書き留めた訳ですが・・・
日常業務の内、もう一つ重大なテーマがあります。
重症心身障害者と呼ばれる人達とは?
私の職場には、重症心身障害者と呼ばれる人達が入所されています。
重度の肢体不自由と重度の知的障害とが重複した状態を重症心身障害といい、その状態にある子どもを重症心身障害児といいます。
さらに成人した重症心身障害児を含めて重症心身障害者と呼びます。
平たく言うと、
自分の力では起き上がることも坐ることも出来ない、手足はもちろん背骨や肋骨も変形して歪んでいるために何かを持つことや両手を合わせることも難しい身体機能
また、成人になっても3歳以下の知能しか持たないために身辺処理や言葉を使ってコミュニケーションを取ることができない
このような障害を合わせ持つ方を指します。
つまり、食事から下の世話まで生活のあらゆる面において常時介護が必要で、自分一人では命を守るどころかかゆいところを掻くこともできないわけです。
とまあ、ざっと挙げてみましたが何となくイメージが湧いてくるでしょうか。
そんな彼らに接触する機会を得て半年あまり経ちましたが、
セラピストとして何を提供するのが正解なのだろうか?
一次障害と二次障害
脳梗塞や外傷といった、いわゆる後天的な障害と違って、
彼らの問題は先天的なもので治癒することはまずありません。
しかし、患者の病名や年齢・特性に限らず生存や目的志向において、
「苦しい」
「痛い」
「辛い」
といった苦痛を取り除くことが最優先課題であると私は認識しています。
以前も紹介したことがある「マズローの欲求段階説」に、再び登場していただきます。
人間の欲求は階層的になっており、基本的に低次な欲求が満たされない限り高次な欲求には至らない
ということです。
ということは、生命維持活動自体が危ぶまれている状態では、健康云々はもちろん所属感や認められたい・能力を発揮するしない以前に、
身体を構成している
筋骨格系・内臓系・神経系・循環器系・経絡系
が、一定水準以上生命活動に貢献している状態を作っていく必要がある
と考えます。
そこで、
重症心身障害者と呼ばれている方の問題点(傾向)を挙げていきます。
脳性麻痺の影響で全身の筋肉が緊張し、スムーズな運動が殆どない
先天的な奇形(原因は不明)により主に脊柱側弯(背骨が捻れたり左右に弯曲する)や肋骨全体の形が崩れており、自分の骨格自体が体幹を圧迫している
人によっては人工呼吸器で外から酸素を送り続けないと死に直結する
口から食べ物が食べられる人は決して多くなく、鼻腔からチューブを通したり胃ろう(胃に直接孔を開けて食事を胃に直接流し込む)という手段に頼らざるを得ない
知的は発達は殆どなく、乳幼児と同等の知的水準
・・・
これらは現代医学ではどうする事も出来ない、身体構造(+精神機能)上のハンディキャップで一次障害と呼びます。
それに対して、リハビリテーションの範疇で対応するべき問題を二次障害と呼ぶことにしましょう。
この二次障害をどのように捉えるか?
が最も重要なポイントでしょう。
例えば、
骨格に奇形があり、背骨が捻れて曲がり体幹が文字通り「くの字」になっている利用者は、それ自体はあくまでも「外観上の特徴」でしかありませんが、
本来筒状(楕円形)であるはずの体腔(体幹の内部空間)が捻れをおこすことで、そこら中に過剰なストレスを生じさせます。
クネクネと流れる河川を例に挙げると、
カーブでは内側よりも外側では流れる水の量が多く、速い流れが作りだす力が反対側の岸に向かう流れを作り出し、土砂が多く流されて浸食が進みます。
つまり、
骨関節の変形は、長期的に見ると身体の内側をえぐる形で筋筋膜的な損傷・圧迫を加えている
ということになります。
かつて、筋膜と内臓の関係性について記事にしたことがあります。
簡単に説明しますと・・・
我々の身体の中にある臓器は腹膜や腸間膜と呼ばれる膜・靱帯などによってある程度固定されており、そのおかげで姿勢を変えても臓器がズレることは少ない。
身体の内側の膜は体表面の筋膜とつながっているため、深い部分でパフォーマンスの善し悪しに直結する。
例えば肝臓を包む膜が何らかの原因で縮んだ状態では腕を挙げようとしても肝臓自体の動きが伴わないために腕が挙らない。
腎臓が疲労することで隣接する脊柱の周囲の筋肉を引っ張り、腰痛という症状が引き起こされる。
奇形という構造的な問題は、
水の流れで徐々に川を浸食していくように筋膜・腹膜レベルで様々なトラブルを慢性化させていくことが予想されます。
この仮説が正しければ、
捻れた膜組織が臓器を締め上げることで臓器の出力を落としている
結果、
生命を維持するシステムが働かない
可能性があります。
生命を維持するシステムとは、
血液を作る・循環させる機能
古い血液を壊す機能
免疫反応
消化吸収機能
排泄機能
ホルモン調節
等です。
これらの機能障害を二次障害と捉えると、リハビリテーションの意義が明確になっていきますね。
さらりと進めるつもりが、久し振りに内臓に関する話になり調子に乗ってきたため情報過多になってしまいました。
次回に続きます。
子どもに与えるべき課題
今日もアクセスいただき、本当にありがとうございます。
ブログのタイトルを変更しました。
基本、週末の自由診療に最大限のエネルギーを動員するため、平日は極力節約生活をモットーとしております。
このブログを始める前から継続しております、
西洋医学的にはお手上げ状態のいわゆる
「リハビリ難民」
に価値を提供しつつも、(紆余曲折あって)普段は障害者(子ども含む)と戯れているわけですが・・・
前回の記事では、
型にはめる「評価」で分かることも多いが、
受ける側からすると正直「大きなお世話だよな」的なことを熟々と書き綴りました。
今回はその続きです。
保護者のニードにどのように応えるか
子どもの療育にあたって、保護者が訴える内容は非常に重要です。(当り前)
親にとって子どもの将来は自分のこと以上に優先度が高い上に、主訴に応えようとする姿勢をこちらが見せなければ、信頼(+満足度)は得られないでしょう。
私が今の職場に入って間もなく、
ある知的障害の子どもを診ることになりました。
そのお子さんは、
家ではいつも所在なさげにグルグルと回っている
双子の兄とはいつも一緒だが他の子どもとは遊べない
本が読めない
字が書けない
言葉でのやりとりが殆どできない
検査測定時も目の前のことが理解できない
・・・と、出来ないことを挙げていけば次々出てきます。
ただ、
セルフケア(更衣やトイレ・歯磨き・・・)は出来る
弟のお世話もしてくれる
毎日ちゃんと学校や通級にも行ってくれる
・・・と、よいところもたくさんあるわけです。
保護者としては、
勉強関連の学力は二の次で、
落ち着きがないことや対人交流技能を何とかしたい
と強く希望されています。
とはいうものの、
ただでさえ限られた交流しか持たない彼の「線の内側」に、「見知らぬ大人」が入っていくことは容易なことではありません。
実際、
不用意に身体に触れようとすると明らかに逃げようとする、怖がる
常に一定の距離を保とうとする
おもちゃを用意しても関心を示さない
ブランコや乗り物、高いところにも行かない
結果、
延々とウロウロ、グルグル・・・
一言でいうと「座敷猫っぽい」。
まぁそれはともかく、
訓練室という特殊な環境において、
彼からは「自己主張」や「情緒的表現力」というものがマイナスな方向でしか出力されていない
ことが見てとれます。
殆ど目を合わせようとしないところからも、素直に遊べるような状況でないでしょう。
そこで、
レゴブロック
を出してみたところ、目つきが変わります。(後から聞いた話、家ではよく遊んでいるようだ)
以降、
何か作品を作るという訳でもなく延々とブロック弄りに没頭し一人の世界に入り込むboy。
・・・「何か作業をさせる」という視点においてはとりあえず成功?
うーん。
何か違う気がする。
そういう日常的なことでなく、
この環境ならではの情緒的体験は出来ないものか?
そういえば、他のスタッフはなぜいつも部屋の中でばかり「療育」をやっているのか?
なぜこの少年は所在なく回り続けるのか?
別の不随意運動で上書きすることは可能なのか?
・・・
そうだ、探検に行こう。
非日常的状況と自己表現力
建て替えや移転によってまるでホテルのような病院・施設ができる中、
当センターは見事に昭和感満載の(老朽化した)造りでござる。
今時こんな道を見つける方が難しくなってきましたが、
なぜか都合よくセンター内に「ある」からすごい。
この道の先には何があるのか?
半ば強引に彼を引っ張り込むと、
怖そう。
でも
楽しそう。
キョロキョロしながらも、ワクワクしながら進む少年。
暗い中を付かず離れず見守る俺。
なんだこの関係は?
と思いながらも長いトンネルを抜けた先には明るい地上が・・・
安堵する少年。
少年がパニックを起こす心配から解放されて安堵する俺。
ポツリと一言。
「怖かった・・・楽しかった」
自分から喋りよった!
やはり主体的に「探索したい」と思える状況をつくることが彼には必要らしい。
しかし、
机の上で作業する状況と、足を動かしている状況で意味合いが変わってくる。
特に、
随意的な要素の強い上肢活動(車でいうとマニュアル車)は、対人緊張という要素がブレーキをかけやすく「いつもの力」を発揮できないことが非常に多い。
歩行という、日常的かつ不随意的(オートマティック車)な運動を介して非言語的に誘導していくほうが、自然と予測や判断力の動員・内発的な情動に従いやすいこともある。
幸い、彼の中で私という存在は大分許容できてきたらしい。
母親からも、「先生のことよく言ってますよ!」
と家族の中では喋ってる。
面と向かって喋ってくれる日も、そう遠くはないのか・・・?
そんな期待をしつつ、また次回のセッションを楽しみにしている私なのでした。
今日もここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。